芸術について考えたこと。
芸術とは何だろう。定義は人さまざまであるが、私はこのように思う。「混沌の噴出」である。突然ではあるが、この世界の実相というものはカオスであると私は考える。比喩的な意味ではなく、私はそう実感させられる事例をいくつか聞いたことがある。例えば、目の見えない人が最先端の医療技術によって突如光を得た世界で、その眼に映るものには直線や幾何学的な図形などは存在せず、形も色もすべてが混沌としている世界しか見えなかったという、医療現場での事例。また例えば、人間は目に見えたものを、いったん大脳の言語野で処理してから、それを「物質」として認識しているという事実。人間は自身の作り出した言語や数学などによって、本来無秩序な世界に作成した秩序を張り付けているに過ぎず(数学が真に人間の作りだしたものかどうかという議論はひとまず置いておく)、いうなれば自らが作り出した虚構の世界に生きているに過ぎない。盲目の人は世界の見え方と言語というものがうまく一対一対応していないため、突如光を与えられても、しばらくは自分の脳が眼前の世界を解釈できないでいるのだろう。
さて、私はそんな、本来無秩序でありカオスであり虚構ではない世界の「実相」、それが私たちの目に見えている虚構の世界の表層に穴を空けたときとき、人はそこに芸術を見るのだろうと思う。シュトックハウゼンという音楽家は、9.11を「想像できる限り最大の芸術的行為」と評した。この発言は世界に波紋を広げ、多くのマスメディアは彼を批判したが、その世間の圧力に負けて、彼はつい最近まで音楽活動を休止していた。しかし私は、彼の言いたかったことは「同時多発テロは美しい」という類のものではないと推測する。地球上には何十億という人間がひしめき合って暮らしているが、中には何世紀も前から恨み合っている人種間の対立もある。イラクの反米感情などがまさにそれだ。アメリカはそれまで武力的に勢力を誇示することで、何とか実質的対立を抑えて均衡という「秩序」を両国間の間に与えてきたが、同時多発テロによって一気にその秩序は崩れ去った。すなわちあの事件は、本来混沌とした人間社会のカオスがポンッと噴き出た事件なのだ。捉えようによってはこれは芸術である。岡本太郎の「芸術は爆発だ」という言葉にしてもそうだ。何か均衡の取れた物質を瓦解させる。それは実相の表現に他ならない。
「ことばのかたち」にしてもそうだ。先にも述べたように、ことばというものは、虚構の、秩序だった世界を作り出す。言い方を変えれば、ことばは本来もののかたちを作るものである。その「ことば」自身のかたちを作り出す過程において、子供たちによる誤解や偏見は、たいていの場合混入される。そうして出来上がった「ことばのかたち」は、本来の言葉の意味をまず確実に超越している。世界の根源的要素が言葉だとするなら、その言葉のかたちを捉えなおすということは、世界を根本から捉えなおすということだ。そしてその捉えなおす過程において、一瞬でも言葉の本来の定義が揺らいだとき、つまり世界に秩序を与えていた系が緩やかにほどかれていったとき、そこに私は芸術を垣間見ることができると思う。これが私の「ことばのかたち工房」に感じた想いである。
(1月24日に取材に来てくださった毎日新聞「キャンパる」の海野玄陽さんがコラムを寄せてくださいました。4月に予定されている成果展の取材もしてくださるそうです!)
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